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ブッダは超ハイスペックな○○だった!【虚無から学ぶ東洋哲学】

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東洋哲学に詳しくない人でも、誰でも一度は聞いたことはある「ブッダ」。名前は知っていても、どんな人か、何をしている人かなど、詳しく知っている人は多くないはずです。そんなブッダの生態を、4月23日新刊『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』より抜粋してご紹介します。

この記事は書籍『 自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学 』の関連コラムです。

ブッダは生身の人間

まず、ブッダについて、一番大事なことをつたえたい。
ブッダは「人間」である。インド人である。
絵でも仏像でも、あまりに「神」っぽいので、勘違いされがち。
人間です。インド人です。
父ちゃんと母ちゃんからうまれたし、たぶんカレーたべてた。
そんなブッダはいまから2500年くらいむかしの人。

ブッタ、職業、王子

ブッダは、とんでもなく恵まれていた。
仮に、古代インドにマッチングアプリがあったとしよう。
もし、ブッダが登録すれば、あまりに「ハイスペック」すぎて、婚活市場のバランスは完全崩壊し、サービスは終了においこまれるだろう。
まず、実家が太い。実家、王家。職業、王子。
年収は、おおすぎて測定不能。頭脳も、のちに人類史にきざまれるレベル。

しかも、たぶんめっちゃイケメンだった。
修行中、地元のギャルに突如おかゆもらったりしたので。
でかい城に住んで、ほしいものは全部手に入る。豪華なご飯を毎日たべて
ハーレムまであった(実家にハーレムあるのもいやすぎる)
家族にもめちゃめちゃ愛されていた。
「王子」って超やりがいありそうな仕事やん。

こんな恵まれた環境なのに、
ブッダはバキバキに「虚無感」に苦しんで生きていた。
たぶん、ずっとふとんに入ってたと思う。

王子といいつつ、じっさいは「無職のニート」だったのだ。
王家にうまれて、虚無感でふとんに入っていたブッダ。
庶民のくせに、「自分、めぐまれてるしな…」と虚無感をもつことすら申し訳なくおもってた自分が、最高にバカらしくなる。
どんなに恵まれてても、虚無感はかんじるものらしい。
それを、若いときのブッダが証明してくれてて救われる。

ブッダ、自分探しの旅にでる

無職、哲学的になりがち。ぼうだいに時間があるから。
暇な時って、「なんのために生きてるんだろう?」とか考えこんでしまったりしません?
するよね?ぼくもふとんの中で一日中、「ブラックホール同士が衝突すると何がおきる!?」みたいな動画をみて、宇宙に思いをはせていた。
ブッダも、だいたいそんな感じだった。

「この人生なんの意味があるんだ?」
「本当の自分ってなんなんだろう?」

しかし、並の無職とは、スケールが違う。

本気で考えすぎて、ある日、家出して、そのまま一生外にいた。
「出家」である。
バレるとやばいので、夜にひっそりでていったらしい。
ブッダも、「自分探し」の旅にでたのだ。
ぼくらのより、だいぶガチのやつだけど。
「出家」ってつまり、「ホームレス」になること。
森とかでねる生活。治安悪いし、トラとかいる。
ブッダ、29歳。 アラサー。王子からホームレスに。
理由、自分さがし。
大企業からベンチャーに転職する、みたいなレベルじゃねえ。
しかも、このとき、妻と、うまれたばかりの子供がいた。
出家とは、家族の縁をきることである。

王様やってる父ちゃんも、急に後継者がいなくなってパニックである。

「自分探し」の本場、インド

インドってすごい国である。
なんと2500年前から、「自分探し」の本場なのだ。
インドじゅうに、人生を修行だけに捧げる「自分探し」のプロが、すでに沢山いた。
当時のインドの「自分探し」業界では、「めっちゃ身体をいためつけたら、本当の自
があらわれる」
という風潮があったらしい。
業界の新人・ブッダもまずは、その風潮にのっかることにした。
その修行の内容がすごい。

「するどいトゲでつくったベッドで寝続ける」
「めちゃくちゃ髪の毛むしりとる」
「めちゃくちゃ息とめる」

こんなことを、毎日やりつづける。
めっちゃ息止めると、頭に激痛がはしって、身体がもえるように熱くなるらしい。
何やってんねん。思い出してほしい。
ちょっと前まで 「王子」をやってた人が、自分の髪をむしりたおしてるのだ。
トヨタの社長の御曹司が、急にこんなことはじめたら週刊文春が黙ってないよ。
そして、修行中、とにかくメシを食わない。断食である。
いまはやりの、ファッション断食じゃない。この写真のレベルでやったらしい。

ブッダは、こんな苦行を6年間やりつづけた。
いやー無理っす。ぼくなら1時間でやめて家もどるな。
しかし、ブッダ、6年修行しても、いまいちピンとこなかった。
だれよりも本気で「苦行」にとりくんだのに、
「本当の自分」がぜんぜんみつからない。
それもそのはず。当時でも、50年以上、苦行してる人とか、ザラにいる世界だ。
たった6年で「本当の自分」をみつけられるなら、みんなみつけられる。
自分探し業界のセンパイなら、「まだまだ苦行がたりねぇな」とおもって、もっと修行をつづけるはずだ。

歴史をうごかしたおかゆ

しかし、ブッダは、革命的なことを考えついてしまう。
たった6年だけど、めちゃくちゃ本気で苦行してきた。
でも、なんか手応えがない。

「これ、もしかして意味ないんじゃね…?」

もっと他に方法あるやろ、とおもったのだ。
しかし、方向転換するにしても、断食しすぎて体力も気力もゼロである。
客観的に見て、死にかけの中年男性である。
ここでブッダが力つきていたら、仏教は生まれなかった。
しかし、ブッダは「持っていた」のだ。
奇跡的に、人類の歴史の転換点をつくる人物があらわれる。
「あのイケメン死にそうじゃね?」と心配した近所のギャルが、おかゆをもってきてくれたのだ。
ギャルはすごい。ふつうの人は「断食している人に、ごはんあげるとか失礼だよね」って遠慮すると思う。
ダイエット中の人にケーキあげないのと一緒だ。

ここで、ブッタに究極の二択をせまられた。
―――おかゆを食うか、食わないか。

思い出してほしい。
ブッダは、妻と生まれたての子供を捨てて、苦行にうちこんできた。
ここで、おかゆを、しかもギャルのおかゆなんて食ってしまったら、今までの努力が無意味になるやんか。

元妻からしても「は?なめてんのか?」な事案である。
自分探しのプロの同業者からも「あいつ、終わったな」と思われること必至。
しかし、ブッダはここで、のちに人類の歴史にのこる、重大な選択をした。

「おれ、おかゆ、食う。」

おかゆを食うことでみえるかもしれない、新しい景色に賭けたのだ。

ズズズッ(食べる音)
あぁ・・・うまい・・・(感想)
うまいよね…(ギャルの感想)

ギャルの慈悲がつまったおかゆは、沁みた。
ブッダの体力と気力がモリモリ回復した。過去最高のコンディションである。
そのままの勢いで、食後、おっきい木の下で瞑想したら、
悟りを開いてしまった。
そんなことある?ちなみにこのギャルは「スジャータ」という。コーンスープとかで
おなじみの日本の食品メーカーの名前の由来になっている。

自分とか、ない。

悟った、ということは、「本当の自分」の答えが見つかったということである。
いったい、どんなものなのか?
その答えは「無我」だった。
自分とか、ない。なかったんだってさ。
いやいや、ないって? ここにあるやん?どういうこと?

ひとつたとえ話をしよう。
ぼくは家がゴミ屋敷なので、すぐモノがなくなる。
ある日、どうしてもサッカーの日本代表戦をみたくて、テレビのリモコンを部屋中探したのだが、見つからない。
2時間探してもみつからず、試合が終わってしまった。
悔しかった。
しかし、翌日気づいた。
おれ、そもそもテレビ持ってなかった。
ホラーである。
仕事がきつくて頭がおかしくなってた。

探していたリモコンは、そもそも存在しなかった。
「ない」ものを探すことは、完全にムダで、おそろしい苦しみだった。
「自分」がない、のだとしたら、「自分探し」はそりゃ苦しいはずである。

東洋哲学は劇薬である

自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』は、ある東大卒のこじらせニート(著者)が東洋哲学を学び虚無感から解放された、哲学エッセイです。
本書では、今回ご紹介した「ブッダ」の他、「龍樹」「老子」「荘子」「達磨大師」「親鸞」「空海」の7人の哲学者たちの教えをご紹介。
知れば知るほど、この世界や自分の見え方が変わってしまうのが東洋哲学の面白さ。
あなたの悩みに合ったお気に入りの哲学者が、きっと見つかるはずです。

この記事は書籍『 自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学 』の関連コラムです。